駆け足で所沢の歴史をたずねる

更新日:2022年12月21日

『ところざわ歴史物語』に掲載された図を見ながら、所沢の歴史の大まかな流れをご紹介します。

1 所沢の地形と古代の暮らしのあと

下は所沢市のどのあたりに遺跡が分布しているかを示した図です。
青い帯は川とその流域の低地で、上から砂川(砂川堀)、東川、柳瀬川です。
左下のオレンジ色は狭山丘陵、その他の緑の部分が台地です。
遺跡は赤やピンクで塗られた黒い円の内側です。大昔の人々が、生活する場所として丘陵の谷あいや柳瀬川沿いを好んでいたことがわかります。

2 武士が住んでいた場所

京都に都があった平安時代の終わりごろから、各地で武士が力をつけてきます。
所沢の周辺では、狭山丘陵の南、東京都武蔵村山市あたりを本拠とする「村山党」が活躍しました。山口城と根古屋城は、その流れをくむ「山口氏」の城の跡です。
城とは言っても、よくイメージされるような天守閣のある城ではなく、山口氏が活躍した鎌倉時代・南北朝時代頃の「城」は、もっとずっと小規模なもので、防御のため築かれた土塁(どるい・土を盛り上げた障害)や堀などの配置が見どころです。

滝の城は、山口城よりも新しい時代の城です。豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻略した時に落城しました。
大堀山館跡は、土塁などが残ることから館の跡と考えられています。ですが建てた人も住んだ人もわからない謎の館です。

3 江戸時代前期の村々

徳川家康が江戸幕府を開き、江戸時代(1590年~1868年)がはじまります。
この図に出てくる地名は、江戸時代前期の1600年代の終わり頃にはすでに市域に存在した村々です。薄緑色に塗られた部分が狭山丘陵、水色の線は柳瀬川です。丘陵沿いや、川に沿った場所に特に村が多いことがわかります。 
三芳町の上富とともに「三富新田」の一部である中富・下富(右上)は、この頃はまだできたばかりです。

4 明治時代はじめごろのようす

江戸時代のはじめは市の南よりに集まっていた村々ですが、やがて北側の台地も開発され、北部にも人が暮らすようになります(武蔵野新田の項参照)。北中村や北岩岡村、神米金村を構成する北野新田、北田新田、神谷新田などは、1700年代を中心に開発された新しい村です。

時代は移り明治時代になると、あまりに小さな村々は、政府が望む行政上の役割を十分に果たせなかったため、近隣の同じような小村と合併することになりました。明治7年から8年にかけて、図に見る北中村、北岩岡村、神米金村、上山口村、山口村が成立しています。

5 今につながる明治22年の合併

明治21年、「市制町村制」という制度が公布され、新しい市・町・村が整備されることに決まりました。この制度によって、翌明治22年以降、現在の所沢市域に所沢町、小手指村、三ヶ島村、山口村、吾妻村、松井村、柳瀬村、富岡村の1町7村が誕生しました。
このうち吾妻村と山口村は調整が難航し、吾妻村は明治24年、山口村は明治35年まで合併できませんでした。

前の図とくらべることで、現在「○○地区」と呼ばれているまとまりは、明治22年の合併に由来していることがわかります。
ところで、所沢町と小手指村、山口村、吾妻村、松井村、富岡村の1町5村は、戦争中の昭和18年に合併して「所沢町」となりました。国を挙げての戦時体制を支えるため、各地で進んだ合併のひとつでした。
戦後、昭和25年に「所沢町」は「所沢市」になります。その所沢市に三ヶ島村、柳瀬村が合併して今の形になったのは昭和30年のことでした。

昭和30年代以降、所沢市は東京のベッドタウン、住宅都市としての歩みを選択します。現在の新所沢地区や並木地区は、その結果急激に住宅が増えた場所で、もとの所沢地区(旧所沢町の範囲)や小手指地区(旧小手指村の範囲)から分かれ、現在に至っています。

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